2018年10月4日(日)

  「いかに幸いなことか」        詩編1編1-6節

    

                                                    杉山いずみ牧師

   「いかに幸いなことでしょう。」と詩編は始まります。どのような時に幸いを感じますか?なんて幸せなんだろう。と口にすることはありますか?
 「どうしたら幸せになれますか?」と質問をされました。どうしたら幸せになれるのか?それは人によって違うだろうと思います。何かをしたら幸せになれるというわけでもないし、何かを手に入れたら幸せになれるというわけでもありません。誕生日に「今年こそ幸せになれますように」というメッセージをもらいました。わたしはその人の考える幸せの形には当てはまっていないのだろうと思いました。“幸せ”とは果たしてどんな形なのでしょうか?わたしも“家族が居たら幸せ”と考えていましたが、家族が居たら幸せなのでしょうか?家族が居てもそれぞれに悩みがあり困難があり苦難があります。問題のない家庭、問題のない人生などありませんから、家族さえいれば幸せというのは幻想であったと思うようになりました。また、“独身は寂しい”と思っていましたが、では、独身は不幸かというとそうでもないと思います。独りで幸せを感じて生きている人も居るのです。幸せの形というのは一つではありません。こうなれば幸せというのは決まった形があるのではなく、幸せを感じることができるかどうかという心の問題です。
 人は持っているもの、在るものに対しては当たり前に思ってしまって感謝すること、喜ぶことができません。健康を失って初めて健康が恵みであったことに気がつき感謝をする。親を失って初めて親の存在がありがたかったと感謝する。お金を失って初めてお金の有難味に気付く。友を失って初めて友の大切さに気付く。美しい自然、きれいな水、きれいな空気が当たり前ではなくなってきて、ようやくありがたさ、尊さ、恵みに気付く。
 失う前に与えられている恵みに気付くこと、与えられている恵みに感謝して喜んで生きること。それが幸いへの道です。
 神に逆らう者の計らいや罪ある者の道、傲慢な者がわたしたちの心にもあり、またいつも身近に誘惑としてあります。不正や搾取、弱い者を虐げることによって築かれる強さや豊かさは一時のものです。本当の幸いに続く道ではありません。
 主の教えを口ずさみ生きる歩みは、パッと花が咲くような華やかさはないかもしれません。けれども、ゆっくり根を張り、ゆっくりと成長をし、時が来れば実を結びます。その道は主の与える豊かさに続く道であり、主の与える幸いへと続く道です。
 「いかに幸いなことか」主の恵みを数えて感謝をしながら喜び生きていきたいと思います。聖書には人を生かす言葉があります。