2024年2月4日(日)

「主は良い羊飼い」 ヨハネによる福音書10章7-18節  杉山いずみ牧師

 

 ヨハネ福音書ではイエスさまがご自分のことを「わたしは〇〇である」という言い回しがたくさん出てきます。みなさんはいくつ思い浮かぶでしょうか、聖書の中から探してみてください。「わたしは命のパンである」、「わたしは世の光である」、「わたしはある」、「わたしは復活であり、命である」、「わたしは道であり、真理であり、命である」、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」、そして、今日の箇所には2つあります。「わたしは羊の門である」、「わたしは良い羊飼いである」です。

 わたしたちはイエスさまへの信仰を通って教会に入ります。イエスさまを信じて、イエスさまに守られて、イエスさまに養われる羊小屋に入ります。イエスさまの門を通らずに来る人たちは群れを荒らし、散らし、滅ぼすことがあります。「キリスト教会」という門を入ってみても考えはいろいろです。「バプテスト教会」といっても教会によって考えも教えもいろいろです。「牧師」の教えを聞こうと思っても牧師によって考えはさまざまです。「神学」から入ってみても、神学者によって考えも教えもいろいろなのです。では、どのように学ぶことができるのでしょうか?何を信じ、どのように信仰をもてばいいのでしょうか?混乱しそうになるかもしれません。わたしたちはいつも、「イエスさまはどのように考えるだろうか?」「イエスさまならどのようにされるだろうか?」という疑問を持ちながら、イエスさまの門から入っていくことが大切です。イエスさまがどのように考え、どのようにされるかは分かりません。でも、そのことを祈り求めながら、イエスさまに従っていくのです。

 また、イエスさまは「わたしは良い羊飼いである」と言われます。良い羊飼いであるイエスさまは命がけで羊を守ってくださいます。エゼキエル書の34章を見るとイスラエルに与えられる良い羊飼いについてこのように書かれています。「探し出し、世話をする、養い、憩わせる、失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」と。

 わたしたちが羊飼いから離れていても、羊飼いを見失っても、主は探し出し、連れ戻し、養い、憩わせ、傷を癒し、強くしてくださいます。

 イエスさまはわたしたちを狼のように強くしようとは思っていません。羊が羊として生きられるような強さを備えられるように、心と体を養ってくださるのですが、狼のように強くなり、羊を傷つけ屠ることで生きるような強さを持たせようと思われているのではありません。羊は戦いません、羊は傷つけ合いません。「自分たちの権利を守るため、身を守るため」と、自分たちより弱い者を食い物にするような生き方を主は許されません。良い羊飼いであるイエスさまに導かれ、養われたなら、わたしたちは強くなります。イエスさまの愛により、イエスさまの命がけの守りによって。

 争いが絶えない世界にあって、イエスさまの門をくぐり、イエスさまに導かれ、養われ、わたしたちは平和を祈りつくるものとして、共に歩んでいきたいと思います。

 

 

2024年1月28日(日)

「役に立たなく見えるもの」ヨハネ福音書6:1-15  杉山いずみ牧師

 

 イエスさまが病を抱える人たちを癒した奇跡を見た人たち、また、その噂を聞いた人たちが大勢イエスさまの後を追っていました。次に行われる奇跡を見たいと思ってでしょうか、イエスさまの言葉を聞きたいと思ってでしょうか、指導者を求めてなのでしょうか、何を期待してイエスさまを追いかけていたのでしょうか。マルコによる福音書634節を見ると「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」とあります。生活の厳しさや、希望のない社会に生きることの苦しさ、疲れを覚えた人々が、希望を求めて、救いを求めてイエスさまの後を追っていました。その様子は飼い主のいない羊のような有様だったと言います。羊たちは飼い主が居なければ狼など野獣の獲物となります。戦う術をもっていません。逃げることもできません。ローマ帝国の支配下にあって、戦うことも、逃げることもできない、希望をもつことすらできない民は、まさに羊飼いのいない羊のような心もとない状況下にありました。

 イエスさまは自分を追ってきた人々に食事を分け与えたいと思っていました。けれども、その人数は男性だけでも5000人、女性、子どもを入れたなら1万人を超えるであろうという人数です。物の溢れる現代社会であっても、今、急に1万人分の食事を用意することは簡単ではありません。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」というイエスさまの質問に弟子たちは驚いたことでしょう。少しずつ食べ物を分けるとしても200デナリオン(200日分の給料)があっても足りないでしょう。と答えました。

 そんな話をしている所に少年が現れます。手には5つのパンと2匹の魚を持っています。それを見た弟子は「ここに大麦のパン五つと魚二匹をもっている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言いました。誰がどう見ても「何の役にも立たない」量です。少年はどのような思いで自分の食べ物を持ってきたのでしょうか。一人で食べるには少し多い量かもしれません。けれども、明日のことを考えるなら、有り余る量ではありません。でも、もし、今お腹を空かせている誰かの役に立つなら、と差し出したのです。

 その少年の行為を見て、イエスさまは感謝の祈りを唱えました。そして、そのパンを分け与えはじめられました。すると、人々が満腹し、残ったパン屑で12の籠がいっぱいになったと言うのです。なぜでしょうか。何が起こったのかその詳細は書かれていません。

 少年の差し出す行為を見て、イエスさまの感謝の祈りを聞いて、みんなが少しずつ持てる物を差し出したのかもしれません。

 

 わたしたちの持っている物は、社会の大きな課題を前に何の役にも立たないような小さな力、小さなお金、小さな声だと思わされます。けれども、自分の持っている少しの物を惜しまずに差し出した少年の姿に学びたいと思います。わたしたちの差し出す何の役にも立たなく見える力を、お金を、声を、主イエスは喜び、感謝し、豊かに用いてくださる、その奇跡を見ていきたいと思います。